古墳 

現在、関東ふれあいの道を歩いています
途中で思いがけず古墳に出会うことがあります

                                     (小暮穴薬師・山の上古墳)    2015.2.8

               ( 少林山古墳)           2015.2.22

この日は午後から雨の予報だったので気が急いていました。
こんな所に古墳があると思わなかったので予備知識が無く
狭いくて14名のメンバーがいるし写真も撮れなかった
         
小暮穴薬師
南向きの斜面に掘られた横穴墓群。
完存している3基の他に5基が確認されている。
いづれの横穴も全長は約2.5m、平面は隅丸台形で天井はドーム状になっている。
出土遺物は釘状鉄製品16本。7世紀後半〜8世紀初頭に掘られたものと考えられる。
市指定史跡、1977(昭和52)年指定。

                             小暮の穴薬師は、西山名駅西方、鏑川右岸の南向きの急斜面にあります。

                           【アクセス】上信電鉄西山名駅から徒歩・自転車400m、
                                   駐車場無し、見学自由 



 

馬庭駅を通過して田園風景を楽しみながら標識通りに最初の
ポイント小暮穴薬師へ向かいます。
県道200号線に出るとこの標識を左に200m行くと直ぐ右にこんもりした
丘があった。これが小暮穴薬師だ。


 
石段を上がると 赤い鉄製の扉があった。

和52年の調査では3基完存、痕跡5基とのことであるが
これ1基しか見られなかった。

凝灰岩の露頭に掘り込まれた磨崖仏があったが
私のカメラでは良く写らないかと写真は止めた。

 

そっと開けて中に入ると2mほどの玄道の先の暗闇に石仏が鎮座していた
これが薬師様でしょうか 
穏やかな顔つきです。



再び、県道に戻り標識のあった所から左の細い道に入った。
次の山ノ上の碑に向かう。

                         
  山の上古墳
隣接する山ノ上碑は微妙な切り石積みの石室を持つ有力首領の墓である。
7世紀半ばの築造と考えられ山の上の碑より数十年古いことから黒売刀自(くろめとじ)の父の墓だったらしい。
後に黒売刀自を追葬したものと考えられる。

 

急な長い階段を上がると正面に 四角にぽっかりと
穴が空いていた。

もしかして、これは古墳?
山ノ上の碑は古墳の奥の覆屋の中にひっそりとあった。

古墳の被葬者は碑を建てた長利の母・黒売刀自(くろめとじ)で、築造年代はこの碑が作られた681年かその少し前と推定
傍らに建つ山ノ上碑によって被葬者と築造年代を特定できる珍しい
古墳と言うことだ。


 

山ノ上古墳は
山寄せ構 築の切石積み横穴式石室の小円墳である。
墳丘 の径は約10.8b、石室全長は7.4b、玄室の長さ 2.7b、幅は中央部で1.8b。
古墳時代末期の特 徴を示している造りである。
全長7.40m、「玄室」長さ2.70m、床幅1.8m、天井幅1.46m、高さ1.66m、
【羨道】長さ4.70m、床幅0.90m、天井幅0.96m、高さ0.96m
 
まず、古墳の中に入ってみましょう
座り込んだ状態で這うように玄室に向かう。
股関節痛の私はとっても無理な姿勢だ。
来たからには入ってみなければ・・・
後日、これは股関節にダメージがひどかった。
 

真っ暗闇の中の玄室の中央には馬頭観音が祀られており、
江戸時代は札所として賑わったそうだ。

14名が一度に入れないので交代です。
這いずり出るのもやっとこさっとこ・・・
 


少林山2号古墳
 

今日は関東ふれあいの道で白衣観音めぐりのみちを歩き
昼食に立ち寄った場所に「あれ!古墳じゃない?」

全長6.3mの袖無し型。粗粒安山岩の山石を用いた自然石乱積。
玄室奥幅2.25m、高さ約2m。奥壁には室町時代に刻まれた線刻仏画が描かれている。
少林山古墳群は、高崎市西部碓井川右岸の少林山達磨寺周辺に分布しています。
達磨寺背後の丘陵は地滑りの対策事業が行われ20基の古墳が発掘調査されましたが、
今でも寺周辺に数基の古墳を見ることが出来ます。
5〜7世紀代に築かれた古墳群と推定されています







 

                 天神山古墳 (太田市)          2015.3.30

今日は天気が良く午後から古墳の案内人が時間があるというので
以前から訪れてみたい東日本最大級の太田市の天神山古墳へ案内してもらうことになった
近くに市営の駐車場があるとネットで調べてあったが
古墳が目の前に見えていながら、周囲をぐるぐるとまわりやっと到着した
そして、今度は古墳が大きくてたどり着くまで再びてくてくと歩きやっと辿り着いた

太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)は、群馬県太田市内ケ島町にある前方後円墳
別名男体山古墳とも言われている
墳丘は後円部・前方部とも3段築成。墳丘長は約210メートルで、これは東日本最大の規模になる。
鞍部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の名称は同神社に由来する。
墳丘表面には葺石が認められ、墳丘周囲には2重の周濠が巡らされているほか、
陪塚2基を付設する。
主体部は未調査ながらすでに盗掘を受けているが、畿内王墓特有の長持形石棺が採用されており、
ヤマト王権と被葬者の強いつながりが想定される。


全景と言っても長さ210mの墳丘はカメラに入りきらなかった。


右の赤い屋根はお社でこれが天神社でしょうか
正面に鳥居があり神社への道があると思いますが
周囲が広くて堀の草地を横切り落ち葉を踏んで墳丘部へ向かった。


墳丘部に3等三角点があった


墳丘表面には葺石が認められ、墳丘周囲には2重の周濠が巡らされているほか
、陪塚2基を付設する
墳丘部から葺石が敷かれている緩い坂を下ると大きな石柱があった。
ここから西の女体山古墳へ。

              女体山古墳 (太田市)          2015.3.30

天神山古墳の東の平坦地に造られた、墳丘の長さ106m、円丘部84m、高さ7m、
造り出し部幅18m、長さ16mの帆立貝形古墳(または造出付き円墳)です。
隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれています。
造られた時期は5世紀中頃で、天神山古墳よりも少し古いと考えられています。
 天神山古墳と女体山古墳は、ほぼ同一時期に同一方向を向いて、
広い地割に基づいて造られています。このことから、2つの古墳に埋葬された人物には
密接な関連があると考えられています


ここにも立派な石柱がありました
今度は正規な道を墳丘部へ向かいます


円墳の先は左右にくっきりとホタテ貝のようなくびれがありました


墳丘トップに小さな石祠があります


大きな椿の根元に、、、、藁が束ねて置かれありましたが
これは何でしょうか

駐車場に戻ると、案内人は北東方向へ車を走らせ竜舞町を目指します
市街地かを抜けると前方に見えてきた  ???



                        塚廻4号古墳 (太田市竜舞町)          2015.3.30


田園風景の中に案内人は「あれだよ」
さっぱりどれか私にはわかりません古墳と言えばこんもりした丘を想像しているから
塚廻り古墳は水田の真ん中でした

太田市東部の水田地帯で昭和52年に行われた土地改良事業の際、
偶然水田の下から発見された7基の古墳のうちのひとつで、長さ22.5mの帆立貝形古墳です。
造られた時期は6世紀中頃と推定され、在地首長層(ムラおさ)の墓と考えられています。
 古墳からは円筒埴輪や形象埴輪が多数出土し、その優れた造形と出土位置がほぼ明確で、
埴輪祭式の様子を解明する上で高い価値を有していることから、出土した埴輪は
一括して国の重要文化財(所有は文化庁)に指定されました。
埴輪は群馬県立歴史博物館及び群馬県埋蔵文化財調査センターに保管・展示されています。
 現在、古墳公園として復元整備され、公開されています。
残念だが現在歴史博物館は閉館されています


円丘部に家、盾、太刀などが
付き出し部分に太刀を持つ女子、後ろに踊る姿の女子、神に供える食べ物を持つ内膳の女子
そして神主、椅子に座る盛装の男子2体捧げ持つ男子、太刀を持つ男子、その後ろに馬飼いと馬が配列されている

高崎の八幡塚古墳にも同じような埴輪が配列されてある。
 帰路の道路沿いの桜は既に満開になって古墳とお花見の楽しい半日でした

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