四国 城めぐり
2017.11.19〜23
第1日目
自宅出発5:00明石海峡大橋12:30鳴門北ICホテル(香川県)
明石海峡大橋は今回で3回目。 前回は10年前に四国100名山の剣山、石鎚山を訪れた時でした。 ついこの間のようだったけれど、あっという間の10年です。 100名山を目標にしていたわけではなかったけれど、数えたら残りわずかに なりに何となく100名山達成しようか・・・当時は元気いっぱいでした。 そして、すべての事に関心、興味があり感動が大きかった。 勿論、大きなうず潮に感動したものでした。 |
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昼食は当地名産の玉ねぎカレーライス 柔らかくて甘い 玉ねぎが丸ごとのっている、カレーはちょっと 酸味がありまろやかな味でした。 淡路島を南下し2時に鳴門北ICで下りて 鳴門うずしおの見物予定でしたが、ちょっとアクシデントがあり、 ホテルに直行した。 部屋はシングルルーム、トイレバス付だが、大浴場も完備。 今のビジネスホテルは大浴場、露天風呂付が多い。 |
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第2日目(11月20日) ホテル8:00栗林公園散策(8:50〜10:00)丸亀城(10:45〜11:30)石鎚山SAランチタイム松山城(14:45〜16:20) 道後温泉(16:40〜17:00)松山市ホテル |
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栗林公園 入園すると折よくボラティアガイドさんが二人の観光客の案内が始まるところだったので 私たちも同行することにした。 日本3名園は水戸の偕楽園、岡山の後楽園、金沢の兼六園だが、 栗林公園は入っていないが「木石の庭の美しさは日本三名園より優れている」という 面積は約75haで文化財庭園では、国内最大の広さである 花の名所でもあり、多くの花木・草花が、春夏秋冬に開花・紅葉する。 丁度、園内は紅葉が始まったところだった。 「栗林荘」は高松藩主の松平家11代の国もとの下屋敷として、228年間使用された。 訪れた時も松の手入れが行われていた。 池の鯉も色鮮やかだった。 一歩一景と言われるだけあって見事な庭でした。 約1時間余りの庭内を散策を終わり、丸亀城へ車は走ります。 |
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丸亀城 420年の歴史を刻む丸亀城。 石垣の名城として知られ、日本一小さな天守は全国に現存する 木造天守12城のひとつ。国の重要文化財になっている。 この白亜の三層三階の木造天守は期待以上に素晴らしかった。 内堀から天守にかけて積み重ねられた石垣は、”扇の勾配”と 呼ばれる特長的で見事な曲線を描いている。 いつもながら石垣の曲線に魅了される。さすが100名城の価値がある。 |
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石垣の見どころ 野積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなど様々な石積が見られました。 また、表面をきれいに加工したノミの跡も見られ石垣の美しさに 圧倒されました。 丸亀城から再び高速道を走り石鎚山SAでランチタイム(かつ丼780円) 高速道から見る石鎚山は残念ながらガスにすっぽり隠れてしまっていた。 |
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松山城 城主 加藤嘉明 松山城の周辺駐車場は何所も満車、近辺をウロウロしてしまった。 いつもは事前に下調べをするのだが今回は何かと忙しく 城の位置さえもさっぱりわからない始末だった。 駐車場から直ぐにロープウェイ乗り場があり、メンバーの2名は乗車、 4人は徒歩で東雲神社から城へ向かうことにした。 松山城に上るための登城道が4ヶ所あり、一番整備されているのが 東雲道で築城当時、瓦・木材・及び石材等の資材を運搬するために 作られた道です。 |
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石段を上がる荘厳な東雲神社があり、お参りしてから神社の 左から登城道へ入る。 山道は結構な勾配があり、暫くぶりに体が汗ばんできました。 頭上にリフト、ロープウェイが見えてきました。 長者ヶ平は売店やトイレがありリフト、ロープウェイの駅があり メンバー2人が乗っていて降車口で合流できました。 |
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天守とは戦闘のときにこそ、その存在価値があり防衛の要として 一大事のときにだけ籠城。 日ごろは城主やその側近らが足を踏み入れることもなく、 生活の場ではないのでトイレも炊事場もない。 そう言えば何処の天守も生活感が無かった。 床は板張りで天井板もないのが通例、ところが松山城は 一重、二重、三重とも天井板があり、畳の敷ける構造になっている。 さらには床の間もしつらえられ、襖を入れるための敷居まである。 当時の城主、松平勝善はここを何の用途にしようとしたのか、 謎に包まれているとか・・・ |
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天守の紋章は、江戸幕府の将軍、徳川家とゆかりのある「丸に三つ葉葵」 広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった 蒲生忠知が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため 在藩7年で断絶してしまいます。 1635年に松平定行が城主となり、それ以降、明治維新までの235年間に 渡り松山は四国の親藩としての役目も担いました |
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本丸前広場は憩いの公園になっていて開放されているそうです。 大勢の観光客、地元の人で賑やかでした。 |
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城めぐりなのだから城と記念写真を1枚撮りましょうか。 松山城は木造の古めかしい建物に急な階段など歴史を感じさせ、 城内部には甲冑などが展示されていました。 |
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天守からの眺望も見どころの一つでもあります。 一つ見落としたというか「登り石垣」を見なかったことです。 万里の長城に似た山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的のため、 ふもとの館と山頂の天守を、山の斜面を登る2本の石垣で結んだもらしい。 勉強不足は後悔することがしばしばあります。 下山は6人一緒に徒歩で駐車場に戻りました。 次は道後温泉へ向かいます。 |
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道後温泉 城下町、松山市の北東に位置する道後温泉。 兵庫の有馬、和歌山の白浜とならび「日本三古湯」と称され、「日本書紀」や「万葉集」にも 記載された名湯、法興6年にはかの聖徳太子が入湯した記録も残っている。 歴史ある温泉に魅力があったけれど、飛鳥の湯、本館もとても混雑している様子でした。 今宵の宿は奥道後温泉を引いてあるそうなので 時間もなく断念しました。 |
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飛鳥の湯 聖徳太子の来浴や斉明天皇の行幸などの物語や伝説が残る日本最古といわれる温泉にふさわしい飛鳥時代の建築様式を取り入れた湯屋。道後温泉本館と同じく、全国でも珍しい加温も加水もしていない源泉かけ流しの「美人の湯」を満喫することができます が、、、中を見るだけで本館へ向かうことにしました |
情緒ある本館 日本最古の温泉の一つとされ、国の重要文化財でもある本館は そのシンボル的な存在です 温泉街は人の波、、、、 本館前は入館する人の列で館内を覗いただけでした。 |
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今宵の宿ビジネスホテル泰平へ直行です。 夕食はホテルの1500円のバイキング しかもアルコール飲み放題、レストランは大賑わいでした 食事も美味しく、生ビールは美味い!! 宿泊していたビジネスマンは大喜びでした ホテルの大浴場は奥道後温泉から引いた温泉、男性風呂は露天風呂がありました 3日目(11月21日) ホテル8:00道後公園(湯築城)8:20〜9:20今治城10:20〜11:30桂浜14:40高知城15:20〜 はりまや橋17:00 |
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湯築城跡 道後公園の全域が、中世伊予の守護河野氏の居城として、 14世紀前半から16世紀後半にかけての250年間存続した城跡。 |
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石垣や天守が無く、地形を利用して作られた平山城。 築城当初の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でしたが、 約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、 二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったと推定されているそうです 100名城に何故?って感じでした 城郭の堀や土塁などの縄張り遺構が良好に残り、城郭発達史からみて 貴重な中世の城跡だということでした。 100名城の価値はいろいろな見方があるものですね。 |
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今治城 城主 藤堂高虎 日本三大水城の一つです(高松城、中津城) 三重の堀に海水を引き入れた、特異な構造で当時は港(舟入)を備え、海から堀へ直接船で入ることができる日本屈指の海城でした。 石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残している |
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藤堂高虎の銅像 日本初の層塔型天守とされています。 庭木の手入れに多くの職人さんが作業中でした。 |
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城内は鎧など多くの武具が展示され、最上階まで階段の登りが大変だった 最上階から瀬戸内海側の展望。 港は活気があふれていました。 |
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次に向かったのが桂浜 坂本龍馬像 像の高さは5.3m。台座を含めた総高は13.5m。 龍馬は小高い丘の上からはるか太平洋の彼方を見つめていた。 150年経っても色褪せない彼は今も多くのファンがいる。 毎年龍馬の誕生日であり命日でもある11月15日を挟み, 約2カ月間,龍馬像の横に展望台を設置し,龍馬と同じ目線で 太平洋を眺めることができるそうです。 龍馬像の脇に櫓が組んであったが、なんか煩わしい感じでした。 |
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桂浜公園 夕暮迫る浜辺は波は穏やかに太平洋が洋々と広がっていました。 いよいよ今回の期待の高知城へ向かいます。 |
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高知城 (国宝) 築城は山内一豊。 天守は江戸時代から現存する十二天守の一つです。 なかでも本丸のすべての建造物が完全に残っている貴重な城です。 追手門 門前の石垣は城内でも最もい巨石が多く見られます。 さすが名城の中でも貫録十分な城でした。 |
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山内一豊の妻像 一豊を内助の功で支えた賢妻の見本でもあります。 その内助の功によって、一豊は出世できたと言われています。 |
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石垣は苔むして歴史の深さが感じとれました。 夕刻に係わらず団体客で賑やかです。 ツアーのガイドさんは息が上がり、「皆さん大丈夫ですか?」 ガイドさん、、、大丈夫かな・・・ |
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天守の最上階は周りは黒い漆塗りの望楼がありました。 周囲を回ってみましたが、ちょっとめまいを感じるようでした。 漆塗りは家康に許可を頂いたそうで、信頼ののほどが伺しれました。 |
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天守に乗っているしゃちほこは青銅製。 均整のとれた姿が目を引く、立派なしゃちほこだ。 通常、鯱といえば一番上に乗っていることが多いので、中々間近で 見ることはできないが、高知城には天守から見下ろした下重の 入母屋破風にも設置されてあり、夕日に照らされとても素晴らしかった。 |
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高欄から詰め門を眺めると城主になった気分! もっとゆっくり城内を眺めて回りたいが、今の時期日暮れが早い。 近くのはりまや橋へ行ってみよう。 ところが、ここも繁華街の中で、駐車場が見つからず 右往左往、御親切な紳士に導かれなんとかはりまや橋に到着しました |
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はりまや橋 写真で見た通り本当に小さな橋でした。 江戸時代初期,堀川を隔ててすんでいた播磨屋と櫃屋が互いの往来のために 橋を架けたのが「はりまや橋」の名の由来といわれています。 からくり時計 はりまや橋の東側設置されています。 午前9時から午後9時まで,1時間おきによさこい節の音楽に合わせて,からくり時計の 上から高知城,下にはよさこいの踊り子人形,右にはりまや橋,左に桂浜が登場します。 私たちが到着したのが5時丁度、夕やみ迫る時計から音楽に乗って からくり時計を見ることが出来ました。 |
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4日目 11月22日(水曜日) ホテル7:45徳島城11:10〜12:00大塚美術館13:00〜16:30ホテル17:30 |
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徳島城 築城 細川頼之 その後、三好・長曽我部を経て天正13(1585)年に蜂須賀家政が入り、 これを修築し阿波の本拠となった。 城は城主が次々に変わります。 現在は徳島中央公園として整備されており、太平洋戦争中で焼失した 鷲之門が復元されました。 明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。 ここも駐車場を探しまわり、広い公園になっているので園内を1周しただけ 良く見ることが出来ず残念でした。 |
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公園内の竜王さんのクスノキ巨木樹齢600年 室戸台風で倒れ、まだ一部が生き続けています。 こんな逞しい巨木からに力を頂きたいものです |
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石垣の道に城の名残を見ただけでしたが 原生林に響く何種類もの鳥の鳴声に癒されました。 今回、期待の大塚美術館へ向かいます。 |
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大塚美術館 国内最大規模を誇る世界で類を見ない、陶板名画美術館 世界25カ国、190余の美術館が所蔵する古代から現代までの西洋名画1,000余点 原寸大で陶板の上に忠実に再現。美術教育施設としても観光スポットとしても最適の施設です 今回、四国に行くことになってこの美術館の存在を知った私です。 入館料が3240円!東京美術館だって2000円はしないのに 随分おねだんがいいなァ・・・ 期待するのは最もですね この日は生憎、雨でしたが美術館内は天気が気にならず時間が許す限り楽しめられると喜びました。 |
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入館すると丁度、ツアーのガイドが始まった所でした。 隅に寄ってちょっとお話を聞くことにしました。 |
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先ず入った部屋がシステーナホール。 宗教に付いては全く無知ですが、ホール全体にはめこまれた陶板焼きの 絵画に圧倒されました。 世界の名画がほとんど展示されていました。 それらの全ては著作権をとっているそうですがピカソは毎年の 契約だそうです。 一体いくら位かお聞きしようと思ったら、ガイドさんは「金額は教えられません」 「・・・・・やっぱりな」 |
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レオナルト・ダ・ヴィンチ、ミレー、ピカソ、ゴッホ、ルノアール、レンブランと、ムンク、モネ、ドガ、フェリメール、 等々・・・世界の名画の数々が原寸大で本物そっくりの色彩で焼き上げてありました 一日時間があれば見ていても飽きない美術館です。 |
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ルノアールの田舎のダンス・都会のダンス 最近見た絵画です 亡きみつるさんと東京美術館で鑑賞した絵が懐かしく思い出されました。 今宵は、我々も最後の晩餐でホテルでフルコースディナーを頂きました。 と言っても(4300円)、とても美味しかったです |
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5日目 11月23日(祭) ホテル7:45鳴門うずしお見物9:00琵琶湖SA12:40〜13:20姨捨SA18:30自宅22:00 |
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慌ただしい5日間でしたが、四国の城と観光の旅が無事に終わりました。 帰路は、琵琶湖SA, 姨捨SA(夜景の名所、丁度上田の花火大会が見られた) ゆっくり安全運転で帰宅しました。 翌日は暫くぶりの長旅で疲れがありましたが、山の仲間たちと 楽しい旅が出来て充実した5日間は良い思い出になりました。 本当にお世話になりました。お疲れ様でした。 |