中山道を歩く21-2
          



関ヶ原宿
人口1389人、家数269軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒

壬申の乱の戦場となって不破の関が置かれ、関ヶ原合戦の舞台となるなど古代から
現代に至るまで、交通の要衝です。
関ヶ原は伊勢へつながる「伊勢街道」、長浜や越前に向う「北国街道」(北国脇往還)への
分岐点として大いに賑わった。





枡屋を7時に出発

関ヶ原宿の通り
200年前に防火対策都市
宝暦十年(1760年)の大火で大半の家屋が焼失したため、
復興後は防火対策として道幅を倍に広げ、中央に水路を通しました。

古戦場跡へ行きたいメンバー6人と分かれ、7人はゆっくりと先を目指すことにした。


 
脇本陣跡

国道が宿場が合流し、昔の面影は少ないようだ。
皇太神宮灯篭、西首塚、
を過ぎたら国道から左の道に入る。

 
 

不破の関跡 
壬申の乱の際、天武天皇と近江朝廷・弘文天皇が対峙し、ここで合戦があった。
勝利した
天武天皇はここに不破の関を置き、通行人などを調べることにした。


歴史上の人物で私は天武天皇が好きなので興味深い場所だった。


 
沓脱石
街道から畑の中を通り、畑の奥に天武天皇の沓脱石と
兜掛け石がある。
 
 

国道を横切り山中の部落に入る。

黒血川
壬申の乱で両軍の衝突が起き激戦で武士たちの血が川底の
岩石を染めたことからその名が付いたと言われる。
なんと不気味な名前でしょうか。

その先に鶯の滝
平坦地の滝として街道の名所になっていたらしい

 
 

常盤御前の墓 
女性のお墓らしい優しい雰囲気の墓だ。 
 

踏切を渡り、国道から右に入ると常夜灯がある。
ここからが今須宿だ 


今須宿 

人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒

 

今須宿の標識。
 

問屋場跡
江戸時代、人や馬の継ぎ立などを行った。
一時は7軒もあったそうで、美濃16宿のうちで当時のまま現存しているのは
山崎家だけで貴重な建物だ。

左に真宗寺、右に愛宕神社、をすぎると
宿場のはずれだ。

常夜灯が何か所もあった。
 

近江と美濃の境界の堰
 

ここに寝物語の碑がある。
  国境を挟んで2軒の旅館があり、寝ながらにして他国の人と
  話がで来たそうな・・・

ここで美濃路の旅は終了し近江路に入る。


柏原宿

人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒

 
近江に入り初めての宿場、柏原宿だ。
江戸時代は伊吹山から産出するヨモギを原料にしたもぐさ商っていた。
柏原宿は中山道でも宿場に寺院が2番目に多く、宿場は静かな雰囲気だった。
本陣跡地、脇本陣跡、問屋場跡、もぐさ屋などがある。
道はまっすぐで古い建物が目立つ。


     

柏原の街並み
宿場は規模が大きく宿間が1.4kmもあり、
宿の保存の気遣いが伺われる。

    

柏原宿歴史館にある喫茶室のソフトクリームに引き付けられ狭い部屋に入り込んだ。
なかなかソフトクリームが出てこない。
私は黒蜜のくずきりを頂く。元気回復だ。
この喫茶室は地元の方たちのコミニュケーションの場らしく賑やかだった。
古い家が多く、当時の家を改装し綺麗に保存されてあった。
 


宿場を抜け白山神社を過ぎると右へ、今回初めての山道だ。
やっぱり歩きよいな・・・
心配した膝は全く痛みはなく安心した。 
 

郷宿跡がある。
脇本陣と旅籠の中間規模の宿で身分の高い武士や公用で旅する
庄屋が利用した。 
 

八幡神社、八王子神社石標、をすぎ、
丸山橋を渡ると左手に柏原一里塚が復元されてあった。
 
 

緩い下り坂を行くと枡形に曲り、左に「鶯ヶ端跡」
当時は見晴らしの良い場所だったらしい。

ここから間もなく醒井宿だ。
 


醒井宿

人口539人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒、家数138軒

宿場には日本武尊伝説が多く残っている。

 
 

・ 
 

醒井宿(さめがい)
宿場に綺麗な地蔵川が流れ、川面に絶滅危惧種のハリヨという魚、
バイガモの藻の緑が鮮やか。
民家の庭の植木が良く手入れされ美しい宿場の印象だった。

こんなきれいな水の流れを毎日見られるなんて幸せだな・・ 


    

醒井宿の狭い家並みとバイカモの綺麗な地蔵川

   

  
 

賀茂神社
神社の入り口に湧き出る水は名水「居醒(いさめ)の清水」
日本武尊の銅像があり、居醒の水は(古事記」や「日本書紀」に記されている。
 

この辺りの家は防腐剤として弁柄塗装をしている家が多い。

再び国道21号線と合流するがトラックが多く身の危険を感じた。
左に見えるおたべと言うマス料理の店から国道を右へ入る。
やれやれだ。

樋口の信号を左に。
久礼の一里塚を過ぎると万場宿は近い。
 

番場宿

人口808人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家数178軒

江戸時代の1611年、番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、
中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点になった。


 

14:25 番場宿の碑
ここから右が米原へ。
予定ではここから米原へ戻る筈だったが、明日の天気が崩れそうなので
鳥居本駅まで頑張ることにした。 
 

     
番場宿は建物はなく、御影石の碑だけがあった。
問屋場跡は6か所もあり、琵琶湖に米原湊が開設されると物資の往来が盛んになり、
天保年間には問屋場が6ヵ所に増えたという。
 「番場の忠太郎」で有名らしいが
よくわからない。


 
番場宿を過ぎると緩い上り坂の摺針峠。
左下に名神高速道路がありトンネルの頂上付近が彦根市と米原市の
境界になる。

峠には標識は無いが、少し下った所で休憩した。
 
 

ガイドブックにはみどりの手すりに沿って下るとあったが
とても、草が生い茂り踏み跡がなく、パスした。道路を横切り
次の鬱蒼とした山道を下るが、蛇が現れそうで怖かった。  
 

16:10 鳥居本駅到着

近鉄で今宵の宿泊の米原駅前のホテルナレッジインへ向かう。

ホテルで入浴後、近くの和食店で生ビールでカンパーイ!

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