中山道を歩く NO.21
            
                                            
                                                             2013.10.21〜22

参加者 CL藤井、SL田所、(車両)星野、野中、(会計)川野、桑子
亀井、新井、宮沢、酒井、篠田、山口、桜井

一日目  20000歩
浜川P5:00→→大垣駅10:58(養老線)11:05東赤坂駅11:10→
東赤坂駅〜赤坂宿〜
垂井宿〜関ヶ原宿  16:00枡屋旅館泊
二日目  40000歩
枡屋旅館7:00→今須宿→柏原宿→醒井宿→番場宿→鳥居本駅〜近鉄〜米原駅  ホテルナレッジイン

三日目  15000歩
米原駅7:07〜近鉄〜鳥居本駅7:20→鳥居本宿→高宮宿→尼子駅
尼子駅10:33〜近鉄〜米原JR東海道本線〜大垣駅着12:03

前回終了した東赤坂駅から出発する。
ところが発車間際に電車に乗ったため駐車場の確認が出来なかった。
帰宅後、問い合わせたが養老線沿線には駐車場は月極めしかなく駅周辺にも
駐車場は無いという。
致し方なく今回は養老線大垣駅の近くのパーキングを利用することにした・




大垣駅前パーキングに2台の車を置き、
3分ほどの距離の養老線大垣駅に向かう。
丁度した時間が無ければタクシーで東赤坂まで行く予定だったが
待ち時間はあったが、我々中高年は多少のゆとりがないと10:58に乗車した。


赤坂宿 

江戸から数えて56番目の宿場
人口1129人、家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17件

ここは水運の要衝として栄えた。



赤坂宿本陣跡
 

赤坂宿道標 

歩き出して間もなく左ひざに痛みを感じた。
大丈夫だろうか?三日間歩きとおせるか不安になった。


赤坂宿お嫁入り普請跡

和宮降嫁に際、二階建ての無い宿場だと「なんと田舎にきてしまったのか」とお嘆きになるというので急遽2階建て風に普請し直したのだそうだ。

赤坂湊跡
赤坂の宿が宿場に指定される以前は、隣接した青墓が東山道の
宿駅として利用され「傀儡(くぐつ)」(遊女)の宿場として特に有名でしたが、
赤坂に杭瀬川の渡し場があって、青墓の宿からこの渡し場までの
距離が離れていたため旅人の利便性を考え、渡舟を待つ旅人のため
赤坂に宿ができました。
そのため青墓の宿場が衰退して、赤坂の宿駅がにぎわいました。

 


何処かランチに適当な場所がないかな?
と、思ってると
西濃鉄道石灰製造工場への引込線(廃線)を越えると
すぐ右に公園があった。


赤坂西公園 ランチタイム(11:50〜12:20)
陽射しが強く、今日は日陰が恋しくあづまやはありがたいが
トイレがないのはが残念だった。

左膝に湿布、右足の裏に靴擦れ予防のテープ。
ここから歩き方を変えて意識的に踵から着地するようにした。

昼食を済ませ道なりに追分を過ぎると左にイオンがあり、
やれやれトイレ休憩が出来た。
相川橋を過ぎると垂井宿に入る。


垂井宿
人口1179人、家数315軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
問屋場は3か所あった。

 
垂井の西見付けあたり


垂井宿に入ると枡形の道路の右に創業200年になる亀丸屋旅館があった。
亀丸屋

東側2階には鉄砲窓、南側には格子があり、建物の前の案内板には
安永7年(1778)に建てられ、浪速講、文明講の指定宿とある。

この春、宿泊を依頼の電話したが、
「丸亀屋さんでしょうか」
「いえ、亀丸屋です」
「どーもすみません!」
「皆さんそうおっしゃいます」
が、14人の宿泊の対応は出来ないと断られてしまった。
もしかして名前を間違えたので顰蹙を買ったのかと心配したが
街道添いの宿は人数に制限があり大世帯の宿泊は敬遠されがちだ。
 

宿場の軒先には昔の屋号が掲げられてある。 
 

垂井宿の通り

問屋場、本陣跡、を過ぎると大きな鳥居があった。
 

南宮大社大鳥居
垂井宿のシンボル的存在
毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は
大勢の人で賑わったそうである。
 

本龍寺
寺の門は脇本陣から移築された。


青野一里塚跡



宿場の西の見附跡を抜けると
ふみきりを渡り、伊冨岐神社の鳥居があるが神社は無く鳥居のみが残る。
日守の茶屋跡と一里塚が並んである。
14:30 垂井の一里塚
中山道江戸より112番目の一里塚が、垂井宿を西に出て
500メートルほどの出屋敷に南側だけ
完全な形で残っている。
この一里塚は中山道に国指定文化財として2基ある内の一つである、


垂井宿を過ぎると野上の松並木
ここでな、なんと私は大嫌いな蛇に気付かず踏んづけてしまった。
今回は蛇に5,6回遭遇した。

木陰で休憩

左にTさんが立っている場所は山之内一豊の陣地跡

東海道本線に沿って緩い上り坂を行く。
 


桃配山
山の名前の由来は壬申の乱の際に、ここに陣を張った大海人皇子へ村人が
桃を献上し、それを皇子が兵士に配ったところ、兵士の意識が上がり勝利した
事からその名がつけられたとか・・・

ここは徳川家康初陣地でもあるから戦いには好適地なのだろ。。

街道は緩い上り坂になり、疲れた足には堪える。 
一つ軒の信号を国道の右に出る。
いよいよ、関ヶ原だ。
 


今宵の宿「枡屋旅館」が突如右に現れjた。
予定通り夕方4時だった。 

創業永長元年(1096年)という老舗。
軒行灯に「創業永長元年」と記されている。
 

お風呂は2,3人用が一つ、交代で入ったが6時になってしまった。
早く、夕食にならんかな・・・

待望の夕食は鍋料理
ビールでカンパーイ!!
女主が一人で切り盛りしているというが、むすめさん?お嫁さん?が
お手伝いに来ていた。 

                                       本日の歩行20000歩

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