中山道を歩く (その11)
松井田宿〜坂本宿 (参加者 14名)
2012.4.8
コースタイム
高崎発6:58→磯部駅
磯部駅7:20→中山道交差点7:45→日枝神社7:55→常夜燈8:20→松井田宿江戸口8:50→
崇徳寺9:00→天満宮9:15→松井田城址(補陀寺)9:45〜10:00→一里塚10:20→
茶屋本陣10:50〜11:50→夜泣き地蔵12:00→碓氷神社12:15→百合若大臣足痕石12:30
横川駅12:55〜13:15→碓氷関所跡13:20→薬師坂13:40→坂本宿下の木戸14:00
→坂本宿上の木戸14:18→旧道登山口14:35→横川駅15:30
横川発15:51→高崎着16:22
今回は磯部駅から横川駅までの間、松井田宿の予定だったが
次回を考慮すると出来れば坂本宿まで歩きたいと思い
横川駅から坂本までピストンすることにした
歩行距離は約22km、37000歩、
番外編
(板鼻宿〜安中宿〜松井田宿)
2012.5.23
前回(4月8日)は雨のため磯部でリタイヤしたので磯部駅から歩き始めたが
今日は八幡駅から西松井田まで歩くことが出来た。
コースの一部が不信のため再度このコースを歩きたかった
6:58 高崎駅 高崎駅から信越本線ははじめての乗車だ。 車窓から青空の下に白く輝く浅間山、左に奇峰を連ねた妙義山が 素晴らしい。 |
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7:45 道祖神 磯部駅から愛妻橋を渡り中山道まで約2kmです。 ちょっと急ピッチで歩いた。 交差点を左に曲がり、直ぐに道祖神があります。 この後もたくさん見られた。 |
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7:55 松井田宿へ3.4km、安中宿5.1kmの標識 街道には所々にこの標識があって、ホッとします。 |
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8:00 民家の庭先のサクラソウ、スイセンなど可愛い花を愛でながら 春の陽射しを浴び今日は街道歩きに絶好の天気だ。 行く手に妙義山が大きく現われ、今日ははずっと一緒に 歩くことになった。 |
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8:20 妙義常夜燈 国道18号に合流すると信号の向こうに常夜燈が木陰に ひっそりとあった。 国道沿いに歩くが、直ぐ手前に右に下る道があった。 しかし、そちらは廃道になってた。でも下から車が上がってきたので おかしいな?と思ったのだが・・・・・・ 帰宅して調べると18号線をくぐって松井田宿へ行けるのだった。 また、来てみたい。 |
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見落とした古道 妙義常夜燈を見て国道の手前をガードレールに沿って右に下る。 前回は資料は廃道になっていたのだが、その時車が上がってきたから? 帰宅してから調べるとその道はやはり現存しているらしかった。 昔の面影が凝縮されているようで、歩いてみたかった。 そして今日はNさんとSさんのお供をしてこちらの道を歩く事にした。 国道18号線を一歩入っただけなのにウグイスが澄んだ空気に響き、小鳥達のさえずり・・・・ カエルのゲゲーッゲゲーッと低い鳴き声 想像通りの田園風景と古道の雰囲気に溢れていた。 木陰に、国道拡張で集められた石碑がズラッと並んでいた。 前方に妙義山の奇峰が大きくあらわに ひと登りで山頂に立てそうに見える。 道の斜面にオドリコソウがびっしりと咲いていた。 でも、この道は一人ではとても怖くて歩けない。 昔の人も追剥ぎが出そうできっと早足で歩いたでしょうね。 |
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8:25 国道沿いの小さな丘に広重の中山道の 松井田モデル地の標識があったが今は広い国道に 遮られて面影はない。 |
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8:45 庚申塔と道祖神 |
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松井田宿 本陣2、脇本陣2、旅籠25軒、宿内人口1009人 南に特異な姿の妙義山、北に上州最大の山城・松井田城を控える。 信州各藩の江戸廻米の中継地、米宿とも呼ばれた。 |
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松井田宿は本陣跡も史跡もなく案内標識がない。 だが、古い家屋や土蔵が残り街道の風情は充分感じられた。 |
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おー!今度は正面に浅間山が姿を現した。 通りは交通量が少なく寂しい街です。 14名の行列に「坂本に行くなら熊よけの鈴を付けた方がいいですよ」 とガラス戸を開けて注意をしてくださるおばあちゃん。 街道歩きで度々受ける温かい親切です。 |
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9:35 江戸日本橋へ32里6丁の石柱 |
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9:40〜9:50 松井田城址、補陀寺 石垣に囲まれた城跡、奥に立派な補陀寺があった。 城主だった大導寺政繁の墓がある。 大道寺氏は小田原城落城後に切腹。 なんと哀れな戦国時代の話です。 |
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10:13 松井田警察分署の手前から左の小道に入るべきを通り過ぎてしまい どうもおかしい? 地図を見直すとやはり違っていた。 県道217号と分かれなければならなかった。 良くあることだ。 一里塚の場所が分からず地元の方に聞くと 分からないと言う。写真を見せると「〇〇ちゃん家とこにある、あれだ。」 やれやれ・・・・・ |
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10:17 一里塚跡碑 小さな竹やぶの隠れるように標識が立っていた。 その裏にこんもりした所が一里塚だったのでしょうか。 そこで日向ぼっこしていたお爺さんにお聞きしたが 分からないと言っていた。 住宅の裏庭につるべ井戸があったがまだ使用しているようだった。 |
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10:50〜11:50 五料の茶屋本陣お西、お東の両家は復元され一般公開している (一人210円 何故お西お東かと言えば両家が同じ中島姓のため土地の人は今も「お西」「お東」と呼んでいるそうだ。 茶本陣は参勤交代などで中山道を通行する大名や公家が休息した所です。 当時は我々庶民は入ることが出来なかったでしょう。 昼食予定の横川までまだ1時間くらいかかります。 今日はご親切な管理人の温かいお茶の接待で、ここでゆっくりと昼食ができました。 なんだか公家のお姫様になった気分ですね |
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これはお風呂です 仕切りも無くちょっと心配したが、当時の灯りは行灯なので 灯りさえ点けなければ真っ暗闇だから覗かれても大丈夫だって・・・・ 両家のつくりは、上座と呼ばれる書院造の上段の間、次の間、式台 通り(入側)、勝手、茶の間、中の間、納戸がある。 |
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12:00 昼食を済ませて足取りも軽く 今、里は梅が満開、道端には菜の花が黄色に染めている。 ウグイスの声、とっても長閑で心癒される街道歩きです。 |
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12:30 ここから妙義の星穴が二つはっきりと見えた。 そもそも、星穴は その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も 相当あったらしく大きな弓と長い矢で川向うの山にむけ 「よしあの山の首あたりを射ぬいてみよう」と思いつき、 満身の力を込めて射はなった。 これを見ていた家来の一人も負けづと思い、腰にぶらさげて いた弁当のむすびを力いっぱいほうり投げ、山には二つの 穴があきました。それで今でも二つの穴が、ここから見ると 夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶように なったと言われています。 百合若大臣がその時使った弓と矢が妙義神社に奉納され |
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13:00〜13:15 横川駅 駅は小さいが駅の南に大きな駐車場があった。 駅のベンチで休憩してから次回のために坂本宿まで足を 延ばすことにした。 |
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13:20 碓氷関所跡 上州と信州の国境にある関所跡。 日本3大関所の一つです。
東門は安中藩、西門は徳川幕府の管理下にあった。当時、江戸を守るために「入り鉄砲に出女」を厳しく 取り締まった。門柱2本と門扉、屋根材、台石が当時も 使用されていたものだ。 |
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13:15 茶屋本陣碑と旧茶屋本陣 現在居住しているため、中を拝見できません。 |
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薬師坂を上ると県道に出た。 14:00 坂本宿下の木戸 |
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坂本宿 本陣2、脇本陣2.旅籠40 碓氷川に沿った台地に川筋に平行した形で設けられた 長さ六町十九間(約700メートル)、北側と南側には百六十軒の家々が建ち並んでいた。 |
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坂本宿から前方に見える刎石山 あれを越して碓氷峠です。 |
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金井本陣跡(和宮が宿泊)現存せず標識のみ 佐藤本陣跡 脇本陣永井 |
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旧旅籠かぎや 旧旅籠 たかさごや(小林一茶が宿泊した) 14:25坂本宿上の木戸 |
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坂本宿は各家の軒先に当時の屋号の看板がかかっていて 宿場の雰囲気が残り、静かな街道だった。 |
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14:20 坂本八幡宮 ここでUターンしようとしたが、次回の下見のため、登山口の 駐車場の確認をしたかったので貯水場まで行くことにした。 |
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14:25 旧道登山口 国道を右にカーブすると貯水場があり、その左下の 薄暗い杉林の下を踏み跡を辿って行くと右の丸太の階段を 上がり国道に出ると目の前に旧道登山口があった。 数人の男性が休憩していたが、軽井沢から下ってきたグループで 京都を振り出しに日本橋を目指しているそうです。 「ここを登るのですか。いやー、ここはきついですよ。和田峠より 大変だった」と・・・・・確かに急だ。後続の女性達が続々と下って来た。 |
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ゆっくりと静岡の方たちと話をしたかったが、貯水場で待つ 仲間もいるので早々と引き返すことにした。 坂本宿から横川駅までひたすら下るのみだ。 関所の手前から右の鉄道文化村の北の遊歩道から横川駅に向かった。 折りよく文化村の電車が通過していった。 |
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15:30 横川駅到着 ひと休みして15:51分発の高崎行きに乗車し、今日の 街道歩きは終了した。 今日は37000歩、疲れたー!! |