中山道を歩く (その7)
籠原駅〜岡部宿
2012. 2. 5
参加者14名
発起人のY氏がまた体調が悪くリーダー役が私に戻ってきてしまった。
急なことでコースも検討している間がなくちょっと心配だったが
今日は一番今迄で時間が短く気が楽と・・・
思いきやなんと一番疲れて、足の裏に豆が出来そうなほど痛かった。
と言うのは街道沿いから枝道に入ることが多く、実際はかなりの歩行を強いられたようだった。
昨日から気温は少し上がったため寒さは緩和したものの 早起きはまだまだ辛い。 高崎駅へ車を走らせるが朝の光がビルのシルエットを くっきりと映し出している。 高崎駅のいつものパーキングにつく頃は街が白々して あたりの景色が良く見えたせいか反って道迷いをして パーキング周辺を行ったり来たり・・・・・電車に間に合うかな? |
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高崎発7:40、8番線ホームで高崎組6人が乗り込んだ。 最前車輌に前橋組が賑やかに陣取っていた。 8:40 籠原駅で乗り遅れた一名を待ち出発時間が20分ほど遅れた。 今日は4名の新メンバーが参加で総勢14名。 |
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8:43 明治天皇御小休所址 籠原駅を出て交差点を左へ間もなく左側にある。 天皇陛下がご休憩すれば碑まで建ってしまう。 |
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8:57 鬼林稲荷(おにばやしじんじゃ) 中山道沿いに赤い鳥居が目が引く。鳥居は太平洋戦争末期に出生する 近隣の人々の家族により建てられ、戦後は祈願成就によって鳥居の数が 増え、人目を引く神社になったそうだ。 初午は2月25日。 神社の鬼林の由来が聞きたかった。 |
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9:30 光福寺 境内に入るとすぐ左に薬師如来が鎮座している。 |
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9:55 熊野大神社 参道が300mと長くてパスしようかと思ったが何かありそうな 気配に本堂へ向かった。 中山道から一の鳥居をくぐると長い参道の両脇に三十九基の石灯籠が続き 二の鳥居ををくぐり、境内の右に大きなケヤキがあり、 また左には歴史を感じる能舞台があった。 春と秋の大祭には幡羅小学校児童による浦安の舞いの奉納・八木節など 次代を担う人々に力強さを感じた。 |
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10:14 御嶽神社 | ||
10:23 御嶽神社一心行者記念碑 一心行者、盛心行者の徳を称え、古来、並木の御嶽山として、 信仰を集めていたとあります。 石碑がズラッと並んでいる。 |
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10:30 庁鼻和城址と国済寺(こばなわじょうし、こくさいじ) 上杉憲英(のりふさ)創建の寺で、黒門と三門(文化財指定)が立派だ。 上杉歴代の墓は深谷市指定文化財でもある。 この館はとっても広く一辺170mの正方形で外郭を含めると 28ヘクタールある。 館内に国済寺を開き、本道裏に当時の築山と土塁が残っている。 境内で休憩をさせていただく。 |
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10:50 日吉大明神荒神社 | ||
10:28 六地蔵と道祖神 お地蔵さんもこれだけ並ぶと可愛らしいね。 |
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11:00 愛宕神社 愛宕神社を過ぎて幡羅中学校があった。 校舎の周りは県大会出場の部活名が張り出されたった。 殆んどの部活の名前があり、校庭の生徒に聞いたところ 体育に力を入れているとか・・・・・・でも凄いですね。 熊野神社の奉納の舞と言い幡羅の子供達はパワーが伝わってきた思いです。 |
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11:12 見返りの松 国道と旧中山道の交差点にある。 当時の松は枯れて現在新しい松が植えられてあった。 遊郭の遊女と別れた旅人が江戸に向かう途中で振り返り振り返り 別れを惜しんだからだと言う。 |
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第9次 深谷宿 本陣1・脇本陣4・旅籠80 江戸から9番目の宿場。日本橋から19里5町、京へ116里29町 天保14年(1843年)で人口1928人、総家数525件、 中山道でも旅籠は最多だった。特に飯盛旅籠が多く英泉が描いた女性達が宿の 繁栄を支えていた。明治時代に煉瓦製造が盛んになり東京の赤煉瓦街を造る源になった。 |
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11:18 常夜燈 深谷宿の東の入り口である。 見返りの松から300mほど言ったところにある。 ここから1.7kmの間に旅籠80軒があった。 中山道を歩きやっと宿場に到着した旅人はこの灯りで 大変救われたでしょう。 深谷宿はたくさんの遊郭があったのかもしれない。 |
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11:25 江戸時代から営業しているだいまさ米店 蔵が立ち並び当時からの羽振りの良さが分かります |
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11:28 東源寺 11:33 長福寺 |
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11:36 行人橋石碑 行人橋の碑は明治31年に北爪義勝(きたずめよしかつ)が書いた。 江戸時代、唐沢川がたびたび氾濫して橋が流された、行人という お坊さんが托鉢をしてこの橋を作ったと書かれている |
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昼食 デニーズにて 11:50〜12:40 十八穀米のスープご飯 低カロリーのおすすめ品 豆腐サラダつきで650円 参考記録に元住町の食事処ひさごの多種類のランチ重箱が650円で 満足な量とあったので楽しみに訪れた処、14名が座れず残念ながら 少し歩いてデニーズでやっと昼食。 |
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昼食が済み中山道から東側の裏通りに入り 二つの寺を探すのが容易じゃ無かった。 12:45 長福寺 12:56 三光院 |
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13:10 深谷駅 高崎線を乗っても深谷駅はホームを通過するだけで駅舎を見たことが無い。 参考資料に一見の価値があると書き込みがあったので今回はゆっくりと駅舎を 見ようと楽しみにしたのだが、ここまで予想以上に時間がかかってしまった。 止む無く外見だけで我慢することにした。 レンガつくりの駅舎は華麗で東京駅を真似て作ったとか・・・・・ 深谷は、江戸後期に瓦が名産品となっていて、それが明治に入り煉瓦造りに変ったといい、 東京駅の煉瓦もこの深谷で焼かれた物を使っている。 駅前にわが国最初の銀行創立者で大実業家、渋澤栄一の像が建立されている |
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13:22 大円寺 新義真言宗、郡中本郷村東陽寺末、西嶋山観音院と号す。 天正二年の草創にて、開山を栄弁と云。不動を本尊とす。 水掛地蔵がある。 |
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13:25 「七つ桜」の造り酒屋 奥に進むとレトロな雰囲気にシネマ、喫茶店等があり ちょっとコーヒータイムをしたかったが、時間に追われる身は のんびりしていられない。 ここにも大きな煙突が聳えていた。 直ぐ先の本陣跡へ急ぐ。。 |
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13:30 中山道本陣跡 飯島印刷所の前に説明版だけある。 飯島家は1752年より明治3年まで本陣職を務めた。 |
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13:40 大きな煙突のある滝沢酒造(株) 「菊泉」を作っている。 軒先に杉玉が下がっていた。 |
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13:55 清心寺 平清盛の弟である平忠度の供養塔がある。 一の谷の合戦で岡部六弥太に討たれが、情深い六弥太によって 一番景色の良い清心寺に墓が建てられた。 武将のロマンを感じますね。 |
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14:04 壊れかかった屋根を突き破り街路樹がニョキニョキと・・・・ このあたりの古い家屋は放置されたままになっていて いつ倒壊するか危険な家が見られた。 |
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14:10 瀧宮神社 休憩 17号を渡り樹木がこんもりしている。 ここに水準点があった。 この辺りから、 左右につけものやがやたらと目に付きます。 時間があればちょっと試食などしたかった。 岡部地区は、関東一の漬け物の産地で、赤城おろしの 吹く頃に最盛期を迎える大根干しは、冬の風物詩になっているそうで それでも昭和40年頃、100軒もあった漬物屋さんも今では、 40軒位に減ったそうです。 |
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14:49 源勝院 領主阿部家の菩提寺 二代信盛から十三代信寶まで十二基の屋根付き位牌形の墓碑がある。 |
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14:55 岡辺陣屋跡・高島秋帆幽閉跡地 中山道沿いに幽閉地入り口の標識がある。 秋帆は蘭学を修め特にオランダ人から砲術を学び、西洋式の高島流 砲術を創始した。多くの幕臣が彼の元に入門した。が中傷により獄に 投ぜられ岡部藩のあづかりの身になった。 岡部藩の陣屋に幽閉された。 日本の西洋式兵学の先駆者である。 |
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15:10 晋済寺 国道17号線に戻り、10分くらいで右に馬頭観音や庚申塔が たくさんある。ここを右に入ると正面に寺はあった。 岡部六弥太忠澄が開いた寺。 |
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15:10 岡部六弥太忠澄の墓 晋済寺から200mほど北方にあり新しい県道を右折し、180m先の 左の畑の中に小さなあずまやが見える。その奥に墓所がある。 一の谷合戦では平氏の名将平忠度を討ち一躍名を上げた。 武勇に優れた六弥太は情深く自分の領地で一番景色の良い清心寺に 平忠度の墓を建てた。 |
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次に向かうのは「島護産泰神社」の予定だったがお疲れ気味の メンバー達は次回に行くことにして岡部駅に足が向いていた。 次回は所要時間が長いので出来れば今日行きたかったが 私も足の裏が痛くて「ま、いいかッ」と今回の旅は終了することにした。 ところがまたまた、H氏の後をつき駅まで大変な遠回りをしてヘトヘトになった。 帰宅しても足が痛くて歩くのがやっとで入浴後 やっと我が足に戻ったようだった。 岡部駅到着は16:00 慌て者の私は切符を取らずにホームに行ってから あら?切符が無いと大騒ぎ そう言えばさっき駅員さんが切符を取らなかった人いませんかって言ってたわよ 大汗かいて階段を駆け上がったり駆け下りたり・・・・ 余談 昼食予定の店内に入ったら、「おばあちゃんがいっぱい来たよ」って子供が言った 「だーれ?おばあちゃん顔していた人は?」「・・・・・・・」 無理も無いね、みんな正真正銘のおばあちゃんですから |