中山道を歩く (その8 )
本庄宿
2012.2.19
第10次 本庄宿 (天保14年) 本陣2・脇本陣2・旅籠70 家数1212軒 人口4554人 扇状地の扇端に位置し豊富な水に恵まれている。 本庄の歴史は古く、古墳時代の遺跡や古墳群が存在している。 明治以降は養蚕が盛んとなって全国有数のマユの集散地として栄えた。 中山道で最大規模の宿場だったが今は行政が関心が薄いのか 何処も荒れて史跡の碑が少ないように思われた。 |
高崎発6:54→岡部駅7:20〜本庄〜神保原〜新町駅15:45
36000歩 参加者11名
今回のチェックポイント箇所
島護産泰神社、岡逞宮神社、百庚申と八坂神社、諏訪大明神、稲荷社、宝珠寺、牧西八幡神社
小川家長屋門、塞神・庚申塔、内野歯科、天皇様、庚申塔、城山稲荷神社
本庄城址、円心寺、愛宕神社、開善寺、慈恩寺、歴史民族資料館、田村本陣門、
安養院、金鑚神社、浅間神社、中山道碑、泪橋跡碑、薬師堂と庚申塔、金窪神社、
陽雲寺、畑時能首塚跡、庚申塔、一里塚跡、神流川古戦場跡碑、八坂神社、
諏訪神社、専福寺、浄泉寺、行在所公園、於菊稲荷
7:20 岡部駅スタート 前回、ヘトヘトになって到着した岡部駅からのスタートです |
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7:45 島護産泰神社 前回フィニッシュ近くでメンバーは疲れてここは次回に回しましょうって 残ってしまった。 気持ちも足も後を向いてしまい、結局中山道はちょっと空白が 出来てしまった。 ま、仕方ないかァ・・・・・ |
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8:00 岡逞宮神社 国道17号沿いにあり今日は祭典があるらしく地元の有志が 忙しそうに準備をしていた。火の神様だそうです 17号から裏の中山道に入る小道にこんな立派な昔の面影を残す 建物がありました。やはり中山道の街道沿いには旧家が現存しています。 |
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8:05 昔を偲ぶ切通しの道は今も一人歩きは怖そうな所です。 |
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8:10 百庚申と八坂神社 幕末万延元年に地元有志13人によって建立された。 この頃井伊直助の暗殺、黒船来航で鎖国が破られ、民衆の 生活が不安定だった。こんな時は神仏に頼る心理から百庚申が 建てられたらしい。 私も日頃は無信心なのに苦しいときの神頼み、「あー!神様どーか」 と頼ってしまう愚か者です。 |
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8:15 滝岡橋 小山川に架かる橋を渡ります 今日は暖かなので橋の上も寒さ知らずだ。 |
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8:40 牧西八幡神社 宝珠寺と向かい合っています 境内の陽だまりで休憩 |
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8:55 小川家長屋門 このあたりに住宅は新しくなっても門だけは残っている家が多い。 |
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9:15 内野歯科 このお宅は隣に歯医者の診療所がある |
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9:50 中山道交差点 ここから本庄宿が始まります |
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10:05 円心寺 朱塗りの山門の彫刻が素晴らしく市の文化財に指定されている。 |
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10:15 本庄城址 城址の奥に城山稲荷があり、本庄城の守護神とするため 西本庄から椿稲荷明神を奉斎したといわれる 現在の社殿は天保15年に再建された。 大ケヤキは本庄城築城のおり献木された。目通り周囲6.3m 根回り13.3m高さ30mの県指定の天然記念物になっている。 樹齢はおよそ400年。 |
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10:46 愛宕神社 ケヤキの巨木 |
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10:50 田村本陣跡 本庄宿の北本陣と言われた田村本陣の正門。 皇女和宮もこの門をくぐったと言われる。 もう一つの本陣の内田本陣跡は案内板も跡碑も何も無い。 |
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10:50〜11:10 歴史民族資料館 旧本庄警察署、現在は歴史民族資料が展示されて 無料で見学できる。 私達も運よく館長さんに声をかけられ、見学させていただいた。 地域から出土した埴輪等が展示されてあった。 撮影禁止だったが知らないで撮影してしまった。 |
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11:25〜12:00 金鑚神社(かなさなじんじゃ) 創立は547年とずいぶん古い。 本庄城主歴代の崇高が厚かった。 社殿のほかに大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。 本殿は1724年、拝殿は1778年、幣殿は1850年の再建で見事な 獄彩色の彫刻が施されてある。 御神木のクスノキは幹周り5.1m高さ20m樹齢300年以上と推定される。 そのため境内を覆い鬱蒼として雰囲気で神社の風格を上げているように見えた。 カヤの大木も境内にある。裏にトイレも設置されてあったので 陽だまりを見つけてここでランチにさせていただいた。 この神社が本庄宿の終りとなる。 |
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12:45 浅間山古墳 畑の奥に赤い鳥居と小高い山がぽっこり。 7世紀前半に作られた古墳で階段を上がっていくと鉄扉の中に 洞穴が見えた。 |
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12:46 中山道碑 本庄宿は規模の割りに行政が中山道に関心が薄い様で 標識が非常に少ない。 |
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12:40 泪橋跡 由来 この地武蔵国賀美郡石神村山地中山道に泪橋ありき 昔、徳川幕府は六名諸役通行の砌街道筋住民に伝馬の人々この橋に 憩い家族を偲び身の儚さを嘆じてか泪しきりなし と・・・・・ |
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13:12〜13:30 陽雲寺 休憩 武田信玄夫人の墓と新田義貞の家臣、畑時能(ときよし)の墓がある 信玄夫人の墓 |
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13:50 畑時能首塚旧跡 荒れた草地に石碑が覗いているだけで、畑時能は 草葉の陰で嘆き悲しんでいるのではないか。 |
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13:54 中山道案内板 |
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14:10 一里塚跡 日本橋から22番目の一里塚である。 |
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14:11 神流川橋常夜燈 河原の長さは518mである。 神流川の流れはよく変わるため、その度に橋や渡船場の位置が 変わってしまい、昼でも判り難い。そのため両岸に目印として常夜燈を 設けた。 現在のものはミニチュア燈籠だそうです。 |
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14:25 神流川古戦場跡碑 神流川橋を渡るとあります。 織田信長が本能寺に倒れた際、瀧川一益は信長の仇を討つため 京へ、このとき北条氏は5万の大群を神流川流域に進めた。 瀧川一益は西上州軍一万六千を率いて大激戦が展開、 「神流川合戦」と呼ばれている。 |
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第11次 新町宿 天保14年 人口1437人、家数407・本陣2・脇本陣1・旅籠43 利根川の支流が合流する近くに置かれた宿。他の宿より五十年遅く 落合村と笛木村が合流し新宿として発足し新町宿の名で呼ばれたのは 江戸中期以降。氾濫原に立地するため洪水に悩まされた。 |
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古戦場の直ぐ前にガトーフェスタ・ハラダに立ち寄りイベント 「駅からハイキング」の参加者にコーヒー、紅茶とお菓子がサービス 素敵なロビーでティータイムが出来た。 14:50 常夜燈 新町宿はここから始まる。 |
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15:20 行在所公園 新町のイベントおひな祭り 公園の一角に飾られてあります |
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15:25 於菊稲荷 赤い鳥居がズラッと並び、何か悲恋の伝説でもあるのかと 社務所に聞いてみると由来記を頂いた。 新町宿の大黒屋の娼妓於菊の話である。 新潟の貧農の娘於菊は美貌で気立てが良く、新町随一の売れ妓 ともてはやされていた。近所の子供達にも慕われていたが、風邪をこじらせ 足腰立たぬ病になった。子供達の親が稲荷社に小屋を建て3年間看病し 病気は全快した。神の恵みと感謝し、彼女は稲荷社の巫女となり 神秘な力を授かり、「困ったことは於菊に聞けばよい」と困った人の 手助けをしたそうな・・・・・・ こんな秘話がありました。 |
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商店のピンクのタぺストリーを目当てに何軒か周り、お雛様を 拝見させていただいた。下の写真は昭和十二年頃のお雛様 私と同じ御殿のお雛様はとっても懐かしかった。 15:45 新町駅に到着。 15:50発高崎行きにセーフで乗車。 |