中山道2 (板橋宿〜蕨宿)
2011. 6 .5
コースタイム
高崎駅7:41→→9:25板橋駅9:35→平尾宿9:50→観明寺10:00→板橋宿10:10→縁切り榎10:35→南蔵院11:00→
志村一里塚11:20→見次公園11:25〜12:00→清水坂12:10→中山道戸田渡船場跡碑13:20→蕨宿東口14:05
→蕨市立歴史民族資料館別館14:15〜14:25→蕨宿本陣跡14:40→JR蕨駅15:00
昨夜リーダーからぎっくり腰のため乗車駅を本庄に変更のメールがあった
ところが当日高崎へ集合してみればぎっくり腰が悪くキャンセル!!
SLの私にリーダーの代行依頼のメールが入っていた
えー!!焦りました。山の代行は軽いものですがいきなり大都会のリーダーと言われても・・・
簡単な資料しか持っていないし勉強不足で道順がようわからへん!!
幸いYさんが詳細地図を持参してあり先導してもらいました
私は最後尾をつくことにしました
板橋宿 本陣1・脇本陣3・旅籠54 板橋宿は江戸から最初の宿場でその長さは十五町四十九間(約1.7Km)でした。 天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など 様々な店舗が軒先を並べていました 宿の中央を流れる川に板の橋が架かっていたので板橋の名が誕生。 旅人をこの宿まで同行し見送ることが多くて繁栄した。 今も商店が多く立ち並び賑わいを見せている。 |
今回の参加者は18名が板橋駅から歩き出します。 |
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板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの 宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から 上宿(かみじゅく。現在の本町)、 仲宿(なかじゅく、中宿とも。現在の仲宿)、 平尾宿(ひらおじゅく。下宿〈しもじゅく〉 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が 架かる石神井川がある。 駅前を左に行き(前回来た道です) また左に曲がると板橋駅西口が左に見えた。 旧中山道の標識が所々にある。 |
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下宿の平尾宿です 近視の私は街路灯に掲げるピンクの平尾宿を 平民宿と読み違え、民宿の宣伝が凄いな! 余程繁盛している宿かと思っていた。 よく見ると平尾宿だった。 |
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直ぐに東光寺があります 門を入ろうとすると あれ!見たことある方達がぞろぞろ現われます どういう訳か皆さん門から入らずに何処からでも 境内に入り込みます 境内にある庚申塔 |
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数分で観明寺です ここも裏口から入り込んでしまいます 正門は板橋不動通り商店街から入ります 境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩 下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の 一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設 された際、当寺へ遷座されました。 |
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賑やかな通りに板橋宿の看板があります |
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通りに懐かしい音色のラッパの豆腐のひき売りの お兄さん。 トコロテンに魅かれ買った方もいましたが 食べる間もなく自宅へ持ち帰ったような・・・・ |
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仲宿通りは賑やかでした。 少々小腹の空いたメンバー達はみたらし団子屋に 群がっていました。 私は一人田舎饅頭です。 |
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板橋宿本陣跡 本陣とは、江戸時代の宿場で大名公家 などの貴人が休泊した宿で、門、玄関、 上段の間を持ち、その家は苗字帯刀を 許されました。 板橋宿では、飯田家が代々本陣役を務めた。 参勤交代大名30家をはじめ、和宮や 東山道軍が宿泊しました。 「本陣跡」は、スーパー・ライフ右隣りの 飯田不動産前に教育委員会が建てた 石柱のみがあった。 飯田不動産は由緒ある歴史のお宅なんですね。 |
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板橋という地名はこの板橋に由来すると いわれています。 日本橋から二里二十五町三十三間(10.6Km) |
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中山道板橋宿の縁切榎である。 いつの頃からか、この木の下を嫁入り・ 婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるとの 信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮 (いそのみや)・楽宮(さぎのみや)の行列はここを 避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、 その下を通って板橋本陣に入ったそうだ。 現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると 男女の縁が切れるという信仰は今でも 続いているそうだ。 私達はどうする?ここを巻いて行こうか? だーれも無視して聞いてくれ無いどころか 何かお願いしているのでしょうか。 ここに立ち止まって動く気配が無かったようでした。 |
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商店街を抜けて国道17号線に出ました。 さすが車の往来が激しいですね。 私達は歩道を行きますが歩道といっても自転車も 通ります。 我が道とばかり歩道いっぱいに広がり 後から来る自転車は迷惑そうです。 右に寄って下さい!!と叫んでも 避ける気配が無く、堂々と真ん中を歩いています。 皆さん、車の運転は上手でも街歩きは慣れて いないようですね |
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志村一里塚 江戸から3番目の一里塚です。 道路を挟んで一対になっています。 箱根の錦田一里塚も道路を挟んで松の木が 一対ありました。 お腹が空きましたがキャンセルのリーダー (既に下見済み)に昼食の予定地を問い合わせを してみると一里塚か戸田橋の坂下を候補地に してあるそうです 一里塚は排気ガスで座るところも無さそうです。 反対側にラッキーなことにコンビニがあった。 ここでそれぞれ昼食をゲット! お腹が空いていると目移りしてどれもこれも美味しそう! 見次公園へ200mの案内板もありました。 取り合えず公園へ行ってみることにした。 |
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見次公園 トイレもあり自然湧水の池がありファミリー連れで 賑やかな公園です。 木陰がありここで例のごとく賑やかな ランチタイムになった。 お腹が満足すると元気が出てきました。 私の前に見知らぬおじさんがたった一人座っています。 この賑やかなグループの真ん中で動こうとせず 私達が立ちあがっても何やら読んでいます。 さすがのNさんも静かな話し声でした。 このおじさんは余程お暇だったのでしょうか。 |
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清水坂 日本橋を出て最初の難所だったとか・・・・・ 今は新興住宅地に開発され、昔の面影は全く ないが、往時は坂はきつく大変だったのでしょうね。 途中に街道唯一の富士山が一望できる場所が あったが今はビルに隠れてしまっているようです。 |
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いよいよ江戸から離れる気配の景色が現われました。 ビルの谷から抜けて緑の木々を眺めると ホッとします。 昼食後、歩き始めてかれこれ1時間になります。 荒川の河川敷に下りたいのですが、ちょっと距離が ありそうです。 戸田橋を渡り、渡船場跡まで頑張ります。 |
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河川敷はあちらこちらでサッカーの練習を しています。 広い荒川は大学のボートの練習場で 川岸に部室らしい小屋がズラッと並んでいます。 |
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おー!やっと江戸から脱出です。 今は立派な橋ですが当時は大変だったでしょうね 板橋宿と蕨宿を結ぶ重要な交通路だった。 渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、 当時の様子を偲ぶことができます。 |
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長い橋を渡り荒川を眺めながら快い風に ホッと一息しましょう。 元気なおばあちゃんの遠足も休憩しなけりゃ 体が持ちません。 休憩後に 荒川の土手下に戸田渡船場跡の碑があります。 その脇に水神社が祀ってあります。 |
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戸田渡船場跡の碑 |
水神社 |
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渡船場跡から細い道を左に荒川側へ行き 直ぐ右に曲がります。 国道17号に出て間もなく立派な蕨宿の石碑が あります こを右に入ると木製の華奢な蕨宿の門が 建っています |
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蕨宿 日本橋から4里28町(18.8Km)、京へ 131里6町(515.1Km) 歩道には中山道六十九次の浮世絵の タイル画や側溝も蕨宿の絵がはめこんであります。 |
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現代建築と古い民家の対照的な町並みです。 | ||
蕨宿歴史民族資料館分館 |
入館無料。 休日と月曜休館。 午前10時〜午後4時。 明治時代に織物の買継商をしていた家を、 分館として公開しています。 建物は、木造平屋寄棟造り。 中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に 建てられたものです。 分館はトイレあり縁側から上がりお座敷でゆっくりと 休憩させていただきます。 |
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少し先に歴史民族資料館があり、その隣に 蕨宿本陣跡があります |
今日のコースはJR蕨駅で終了になりました。
お疲れ様でした。
私は皆さんとホームで別れ孫の待つ娘宅へ向かいました。
修学旅行のお土産を頂きに寄ったのですが
高いお土産になりました
京浜東北線に私は一人乗り込み皆さんここでさよなら!
夕方、孫の新体操の練習日だったので娘の運転する車に乗り込み
R大学キャンパス内の体操場へ見学に・・・・・
体操場ではオリンピック選手の卵達がカラフルなレオタード姿で
大車輪、マット運動などなど所狭しと飛び回り小中学生とは思えない
技に思わず拍手、見応えがありましたね
週4〜6回の練習に汗を流しています
怪我だけは気をつけてね・・・・と願わずにいられませんでした。
一晩泊り、翌日は孫の「学校から帰るまでいてね!」
嬉しい言葉だけれど私はおばあちゃんをしていられません
いろいろ忙しいのよ。また来月来るね!